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かたちの交換から始まる関係 | 展覧会鑑賞記 #1 透明な玉ねぎ 

2026.05.12

はじめまして。高橋順平と申します。

私は展覧会を見に行った感想を書きたいと思っています。そんなものはこれまで書いたことはありませんが、あちこちで日々開催されている様々な膨大な展示(ワークショップやパフォーマンスとかも含めて)が、どこにも書かれることなく、その熱量も含めて大半が忘れられてしまうのかもしれないと思って、とても寂しくなる時があります。

だから少しでも書かれる展示が増えればいいなとずっと思っていましたが、動き出すきっかけもありませんでした。今回ムツキさんからこのような機会をいただいたので、なんとかやってみようと思っています。

しかしいざ書き出すと、この文章がインターネットに残ってしまうことが少し恐ろしくもなってきました。展示を見に行って私なりに印象に残ったものを書き残したいと思ったのですが、これはいわゆる展覧会レビューや批評といったものになってしまうのでしょうか。だとしたら私が何か書き残したせいでそれが評価になってしまったりするのだろうかとか、私程度の知識で適当なことを書いてもいいのかとか、怒られるんじゃないかとか、だって誰も書かないのが悪いんだろうとか、そもそも誰か読むのだろうかとか、いろいろ考えてしまいます。単に日記や紀行文のようにしようかと思いましたが、私がその展示を選んで書く理由を説明する少しの責任もあるのかもしれないと思い、初めてのレビュー(これはレビューなのだろうか?)をひと思いに投げてみることにします。


「透明な玉ねぎ」は、2026年1月17日-25日にgallery gobanguraで開催していた玉住聖、草加琉平、遠山奈実子による自主企画による展示である。

私はこの展示をSNSで知り、その最終日に訪れた。その日は文化博物館で開催していた京都府新鋭選抜展の最終日でもあったので、私はその足でgallery gobanguraに向かった。

gallery gobanguraは古い町家に残る蔵を改装したギャラリーのようで私も初めて訪れる。改装された町家を奥に進むといかにも古い重厚な白壁の蔵がある。その手前には居心地のよさそうな中庭があり、作家と思われる人物が縁側で数人と話していた。私はそれを横目にそそくさと記帳して蔵に入る。

蔵の中はかなり暗い。いくつかの小さな橙の灯りが床に点在し、また小窓から青い外光が漏れている。それに照らされ、床や床から数センチのテーブル(よく見たら木の板の片側に石を挟んだだけのものだった)にノートや紙の切れ端、写真、植物の葉、小さな陶器のオブジェ?などが置かれている。それらは手に取って読めるようになっている。重ねられコラージュのようになっているものもある。壁の低い位置に小さなシェイプドキャンバス、端ではプロジェクターが小さく映像を写している。

作品を踏まないように気を付けながら慎重に歩く。

次第に目が慣れてきた。

しゃがんで手近なノートを手に取る。プロジェクターの反射した光でノートを照らしながらページをめくる。ドローイング、図、言葉、日記のようなものなのだろうか。部屋の暗さと内容の内向性による読みずらさに困惑しながらページをめくっていると、突然声をかけられた。作家と思われる人物がこの展示の趣旨を説明してくれる。この展示は東京・京都・大阪に住む3人のアーティストの交換ノートから始まったものらしい。また今回の展示に合わせてブレンドしたコーヒーがあるということで、それをいただきながら続きを見ることにする。

交換ノート?いや、このノートはおそらく遠山によるものだろう(なぜなら私は彼女の作品を少し知っているから)。他にもいくつかあるのかもしれない。私はこの展示を見るには時間がかかりそうだと理解した。そして渡されたコーヒーもそのためだろう。


一通り置かれたものを見終えて顔を上げると、この空間の隅に階段があったことに初めて気がついた。2階もあるらしい。作品がどれも低い位置にあり、暗く、階段も黒かったから全く気付いていなかった。

木造の急な階段を上がると流木のような木に吊るされた布に映像が投影されている。手前には大きな絵がレジャーシートのように敷かれ、その上に砂が敷かれている。小さなモニターや紙が砂に混ざって置かれ、子供が遊んでいる最中に時間が止まった砂場のようだ。

椅子に座って映像を見ることにする。椅子の上にはまたノートがあり、これが本当の交換ノートのようだ。

映像では砂浜に刺さった3本の蝋燭が風に吹かれて揺れている。薄いピントが横並びの蝋燭にだけ合い、遠くには玉ボケた街の灯りが見える。ここは海なのだろうか?蝋燭の火はときおり強弱を繰り返す風に今にも消えそうになっている。まさに風前の灯火だ、と思ったら1本が消えてしまった。この部屋もそれによって少し暗くなった。どこからともなくライターを持った手が現れ、その蝋燭に再び火を灯す。しかし依然として砂浜に風は吹き、そしてまた何本かの火が消える。するとどこからか手が現れ火をつける。それが何度も繰り返されている。

私はそれを背景にノートを捲りながら、この展示についてゆっくりと振り返り始める。この時間が好きだ。そうしているうちに私の中にある妄想が流れ込んできた。


 その日、私がひとり夜空を見上げていると、遠くで暗い光がちらちらと明滅したような気がした。私が望遠鏡でそれを覗くと、小さな1人用の宇宙船であった。それは光を不等間隔で明滅させ、遠くの別の船と通信しているように見える。1つだった光はいつしか3つの光となって、それらは徐々に近づきながら、やがてある星に着陸した。

 そこはまだなにも描かれていない地表、あるいは過去の痕跡はすべて風化して消えている地表だった。で3人は初めて出会い、そしてそれぞれの船の中での生活について地面に線を引き描き始める。伝わっているのかそうでないのか分からないが、かたちを受け取りあい、それが次のイメージを呼び起こしまた描かれる。その時彼らはお互いのイメージが伝わっているかという以前にとても楽しそうにしている。線を引くときの指の感触、そして描いたかたちがお互いに触発しあってさらにかたちが広がっていく喜びを感じている。夢中になって線を描き合っていると、気づけばその地面はその星初めての絵になり、彼らはとても親しくなっている。最初の絵は最初の関係のために描かれる。

 私はこれは何かすごいことを覗いている気がしてさらに望遠鏡を拡大しようとする。しかしそのわずかな動きで、何万倍に拡大された視界は激しく揺れてしまった。それで再び当たりを探してもその星を見つけることはできなかった。


他の鑑賞者が2階に上がってきたので、私はノートを閉じ、席を譲った。階段を下りて蔵の外へ出る。気づけば長いこと蔵の中に居たので暗さに慣れた目に外がとても眩しく感じる。最終日ということもあり作家3人が全員在廊していたので、初めましてですよね、、と挨拶をしつつ、なぜだかいつもより少し正直になった私は言葉をつっかえながら感想を話した。 

私は帰り道、交換ノートを思い出しながら、遠くの星に描かれた最初の絵と3人の関わりにもう一度思いを馳せる。そのかたちの交換は、最初は遠慮がちにあるいは試すように、しだいに大胆にしかし気を使って行われていたように見えた。そういうかたちの交換が作った人間の関係が確かにあったことを誰かに伝えなければならないと私は思い立つ。あの奇跡的な空間をもう一度見つけることはできないだろうし、見つけた頃にあの絵が残っているとは限らない。


何日か経って私は「透明な玉ねぎ」の感想を書こうと思いパソコンを開く。

私が「透明な玉ねぎ」に動かされたのは、生活の痕跡(ドローイング)、作品とは呼び難いまだ曖昧な状態の「それ」による3人の関わり/交流(コミュニケーションとも言いたくない)に、私たちが制作活動のうちに感じる根源的な喜びと孤独を祝福していたからだ。

彼らは、私たちが生きているうちになにか意味以前のかたちを作ること、そしてそのかたちは必ずなんらかの作用を与えること、をお互いに信じていた。そしてそのかたちの交換が繰り返されることで、3人のとても小さな関係の中で特殊なかたちの制度、人間関係の制度、が生まれてくることの可能性に賭けていたのだ。つまり美術が人間が作り出すかたちと関係性の制度の歴史だとすれば、美術がもう一度自分たちの生活から生まれる物語を私たちに経験させようとしていると言えるのかもしれない。しかしこれは単なる美術の起源への試みでは決してない。(それらが制度化する直前の最も幸せな時空間を通過することが本当の目的なように私は思う)

きっと重要なのはこれが3人によって取り組まれたことだ。いくら1人で生活の痕跡を残そうともそれが制度化することはない。制度には社会が必要であり、そしておそらく美術は制度なのだ。3人の生活の痕跡の交換は、最小単位の社会として、そしてそれが最小だからこそ、なおのこと慎重に緊張感を持って行われていた。だからこのかたちの交換は非常に政治的で民主的な行為だった。そして民主的に作られた最小の美術は、翻ってそれが拠って立つ生活の存続と結びつく。

美術は私たちが作るかたちにこれまでも意味を与え続けてきた。それに私は救われるときもあるが、私たちの生活とは完全に空転し滑りきっているように感じるときもある。それが何かははっきりとは分からないが、私と美術の速度差は広がるばかりに感じられる。私たちが1人で作るかたちと、あまりに大きな美術とが、もはや摩擦も生まれないほど分離している。あるいはそういう時がいずれ/ときどき来るのだとしたら? 頑張って加速すれば、それに身体ごと飛び乗ることも可能かもしれないが、そうでなくとも私たちは私たちと接続された別の美術を想像する事ができる。そのために私たちは時々まだ何も描かれていない地面を想像するのかもしれない。そしてその想像力のまま誰かと集合することができれば、そこで生まれる美術は私たちと同じ速度で回り続ける。そういう物語を私は「透明な玉ねぎ」から受け取った。


「透明な玉ねぎ」

作家:
玉住聖 
草加琉平
遠山奈実子

会期:
2026/1.17 (sat) -25 (sun) 11:00-18:00
定休日なし

会場:
gallery gobangura
〒600-8403
京都市下京区不明門通松原下ル吉水町460奥

高橋順平