Straight

くねくね迷歩道 vol.1:忘れっぽい道

2026.04.17


壁/wall

建物において床と屋根または天井を除く四方を囲うもの、または部屋と部屋の隔てとなるもの、建物の仕切りとなる平板状の部分。(Wikipedia より引用)


どうしてこれほどまで壁について考え続けているのか、未だ明確には分かりませんが、街中の壁に興味があって、それを主題にずっと作品制作を続けています。それは単純な表面のテクスチャーや色彩の美しさへの関心から始まり、今では壁のことをひとり生きている人間と重ねて見てしまう瞬間すらあります。

ただ努めて淡白にもエモーショナルにも偏りきらない愚直な散歩と、そこで思い浮かんだ周辺の思索をうだうだと健康的に書き留めておくことを目標に、けれども考え込みすぎず軽やかにテキトーに、この場所に記録していきたいと思います。

「高架下にあった、もう何も支えない柱」

作品制作に影響を与えてくれる壁に出会うコツは、そういった壁を探さないし、そのことを考えもしないこと。世の中の他の物事にも当てはまる事だけれど、何かを求めている時はその何かにはなかなか出会えない。大抵は通勤中や目的地への道中に目を惹く壁に出会う。そういう時に限って時間に余裕がなかったりする。ほんの一瞬写真を撮ろうか思案して、そのまま見過ごしてしまった場所が沢山ある。案外そういうものの方が記憶に残っていたりする。本当にいい物は他人に共有できないから寄る辺無い。NAZEという作家の「WASURETA KOTO WO WASURE NAIDE」という言葉を思い出す。

「空き地にスローアップ、右奥のみ煉瓦」

京都は古い建物が多く残っていて、それをささやかに感じられる状態に割と頻繁に出会うことがある。過去にこの場所に存在したであろう歴代の建物たちの一部が少しずつ残って、おおよそ合理的ではない、けれどもわざわざ工事して整えるまでもない半端な状態が嬉しい。街を整備する偉い人たちが、「別にこのままでいいでしょ」と放っておけるくらいの適当さも一緒に、この世に残り続けてくれるような気がする。整えられた物は綺麗だけど、隙や歪みが無いと美しくはなれないと思う。

煉瓦にはドイツ積みとかフランス積みとか、いくつか積み方があるらしい。煉瓦造りの建物が減って、職人がいなくなれば、そういう技術はいずれ失われてしまうんだろうなと思う。作品を作るということは、そういう技術をほとんどひとりで作り上げていくということで、つまり作者がこの世からいなくなれば無くなる短命な技術で、だから価値があるのかもしれない。ということは、誰にも見向きされない作品があったとしても、そのために積み上げられた技術だけは他の誰にも取って替えることの出来ない貴重なものってことになる。当然と言えば当然のことではあるけれど、案外忘れがちなことだよなと思う。自分が誰かの作り出した物を見る時は、こういったその人だからこそ産まれる物を期待している節がある。だから作り手と作品を完全に切り離して見ることは出来ていない。そうする必要があるともあまり思えない。

「網入りガラスにテープ跡、緑にへたれシーリング」

でもその理屈でいくと、自分が街で見る壁には作者がいない。厳密にはそれそのものを作り出した人はいるんだろうけれど、自分はその人がどんな人物なのかを知る由もない。その上、時間経過によって所謂作者性なんてものは益々希薄になっていく。なのにそこに魅力を感じているのは結構な矛盾だなと、今気づいた。多分、作者の存在が希薄になるにつれて、それそのものが独立して一人歩きしてる状態に魅力を感じているんだろうな。作品を見て、それを作った人間の手つきを感じる楽しみもあれば、作品それ自体の強度に感嘆する瞬間もある。矛盾は往々にして存在する物だし、それを解消しきってしまおうとも全く思わない。

「ホットドッグに雨垂れソース(コンクリブロックに鉄のパイプが挟まれているので)」

壁を眺めている時、よく「その壁は黙ってそこに立っている」と感じる。当然壁は声も音も発さないから黙ってはいるんだけども、そう感じるのはそこに作者性を感じないことが原因しているのかもしれない。別に伝えたいことや言うべき事がなくても、それでもそこに存在するだけの強度を持ったものが作れればいいと思う。

「二輪バスタクシー」

絶対に後から二輪とタクシーもここを通れって道にしたよな。

「産まれた四点、ビニール傘、自販機」

何かがここにあった時より、それが無くなった今の方が案外魅力を感じることがある。そういえば少し前に職場の人に「作品の色気」という言葉を授けられてから、その言葉が頭から離れない。作品に宿る色気とはどこからやってくるのか、足りない頭をぐるぐると悩ませた結果、少なくとも色気を出そうとして作られた作品には、求めているような色気は付与されないだろう、ということだけはなんとなく分かりました。

つまり自分はこの場所に何らかの色気を感じた訳だけど、その根源は、今回の場合は「距離」にあったんだと思う。かつてここにあった何かへの、もう手の届かないほどに開いている距離。そういえば昔に自分が好きだった戦時中の艦艇とかにも同じような魅力を感じていた事を思い出す。憧れを憧れのままで置いておくことが強制的に達成されてしまうから、そういったものへの憧憬は日が経つごとに少しずつ増していく。というか、”憧れ”という言葉それ自体が距離を内包している。対象との距離がゼロに近づけば、憧れは発生しない。

「少しの間だけ緑色の塔」

ちょっと前に読んだカズオイシグロの『わたしを離さないで』という小説には、自身の親を知らない青年たちが登場する。その青年たちの内のひとりが、もしかすると自分の親かもしれない人物(彼らはそれをポシブル=possible と呼ぶ)の目撃情報を元に、失くしものが見つかると噂されるノーフォークという街へ、小さな旅をするシーンがある。憧れたものへの距離を少しずつ縮めていくことは、同時にその対象への純粋な憧れを手放すことにもなり得る。ここで言ってる距離とは、物理的なそれではなく精神的な距離を指している。

「ベンチの背中とバケツとバケツ」

可能性。途中まで読んで放ったらかしの小説。ミロのヴィーナスの腕。Y字路の選ばなかったほうの道。早起きしていれば済ませておけたかもしれないあれこれ。人は一日のうちに数えきれない量の選択と決断をしているらしい。その選ばなかった方の全てに可能性が残って、それが憧れのようなものへと育つ場合がある。一方で、それが後悔に姿を変えて疲れてしまう時もある。だから人間には忘れるという機能が備わっているんだろうな。忘れっぽい人はその分、日々の決断の量が多いんだろうか。

パウル・クレーの「忘れっぽい天使」という絵に描かれた天使は穏やかに微笑んでいる。自分が忘れっぽい事を自覚した上で、これまであった色んなことを忘れていて、かつそれに幸せと少しの寂しさを感じているように見える、そんな気がしてくる。

色々と考えて話が散らかってきたので、本日はここまでとして帰りましょう。

散歩ってそんなもん。

またこんど!


櫻井正樹

1999年京都府生まれ

2025年、京都市立芸術大学大学院美術研究科修士課程美術専攻(油画)修了

街に存在する壁を起点に、フレスコ画の技法を用いて制作する。壁に発生する自然/人為的な劣化の現象によって、かつてそこにあった意味や機能が擦り減り、徐々にオブジェクト化していく経過に着目している。

最近欲しいものは車と駐車場。

櫻井正樹