水中のコーヒーを淹れきる時、大きく息を吸い込んで|(まだ)真っ暗ではない展覧会を思い出す#1


このテキストは、2024年の8月末から9月中旬にかけて出町柳駅の近くに拠点を置いているグラフィックデザインを専門とする事務所「UMMM」にて、中山和也がキュレーションを行った計9名の展示についてまとめている。文章を書く上で、作家をできるだけ対等の立場として扱いたいために敬称を省略していることは許されたい。また、hogeにて展覧会の鑑賞記録を執筆していく上で、私は一年以上前に訪れた展覧会について思い出しながら書いていきたいと思う。今回の展覧会のタイトル「真っ白に塗りきれていないプールの梯子」から勝手に拝借して「(まだ)真っ暗ではない。展覧会を思い出す」というシリーズにしたいと思う(長いから変わるかも)。


ひとりで行くには心細かったので友達を誘ってオープニングパーティーに行くことにした。
19時に少し汚れた白い建物の前に到着した。夕飯前でお腹が空いていたのでフレスコで買ったおにぎりを食べながら友達を待っていると、友達から遅れるという連絡が来た。おにぎりを食べ終わる頃にたまたま別の友達と鉢合わせたので、先に一緒に中に入ることにした。階段も壁も元々白かったのだろうけど汚れて黒くなっている。展示空間に辿り着くと、入り口にお風呂に敷かれているような白の吸水マットが置いてあった。私は何回かここに訪れたことがあるので、それが今回の展示のために用意したものであるものだろうということはわかった。すでに多くの人が来ていたからか、会期初日にしてはマットが汚れて黒くなっていた。

展示室に入ると、左側の壁面には白いカッティングシートで展覧会のタイトル「真っ白に塗りきれていないプールの梯子」が壁に紛れるように貼られていて、右側の机は来た人を迎え入れるための飲み物やハンドアウト、芳名帳が置いてあり、展示作家の長嶺さん、平井さん、谷口さん、宮本さんがいた。芳名帳に名前を書き、ハンドアウトと飲み物をいただいた。チラつく会場内に意識が逸れてしまい、何を飲んだのか覚えていない。グレープジュースだったか、ワインだったか・・・。紫色をしていた気がする。

展示空間には、吊るされた白い玉、見慣れないテーブルと椅子、大きな新聞に印刷された梯子の写真、床に置かれた新聞、歪な形をした木彫が置かれていた。そして、きっとそれ以外にも置かれていた。オープニングパーティーということもあって、作品について特に追求することもなく、梯子を登った先にある荒木さんの作品や旧UMMMの事務所前に置かれた中山さんの作品、誰かのポケットに入っているのであろう谷口さんの作品を見ることもなかった。


展覧会のタイトル「真っ白に塗りきれていないプールの梯子」から察するに梯子は元々白くなかった。白く塗る理由については深く考えずに、真っ白に塗りたいと思っていたのだけど塗りきれなかったということに注目したい。それは途中で面倒臭くなってしまったのか、塗料が足りなくなってしまったのか、塗り切らないことが目的だったのか。UMMMはグラフィックデザインを専門に活動しているスタジオなのに真っ白に塗ったはずが塗りきれていなかった。ということはありえるのだろうか。ともあれ、一度中山が本展のために用意した文章を確認したい。

展覧会の会場となるUMMMにはいいムードが流れ、アイデアを生むいい時間が流れ、たくさんの笑顔がうまれ、デザインや表現の新しい波を起こしている。みんなと悩みながら思わずそれぞれの口から出るUMMMが社名となり、「悩みも発見も側で一緒にしたい。アイデアを一緒に見つけたい。」という会社の思いが、この空間、そしてこの歴史ある建物を語っている。いいムードが流れ、波を起こしているのは、UMMMの壁にプールの梯子が設置されているからなのかもしれない。この梯子があることで、プールの水の中のような感覚となり、タイムを競うこと、ゴールすること、飛び込むこと、技を披露すること、芸術的な表現をすることに集中できるのかもしれない。しかし、このプールの梯子をよく見ると、真っ白くなっておらず下の素材が透けて見える。プールの梯子がなぜこんなところにあるのかが気になると、塗りきれていないことも気になり、ここがプールではないことを確認してしまうかもしれない。プールを想像をしながらもプールはないことを確認しつつ、真っ白に塗りきれていないプールの梯子があることを確認しつつ、3日間の制作タイムの中で悩み発見しながら競い、ゴールを目指しながらUMMMと呟き続けたい。

スタジオに梯子が設置されていることでスタジオに居ると、そこがプールに感じてくる。そのためスタジオでの業務に競技性を意識してしまう。
(そして競技に取り組む中で生まれる波はスタジオの外にも広がっているかもしれない)。確かに悩んでいる時に口から出る「う〜む」の「〜」や大文字の「U」と「M」は波のような形をしている。しかし、意図してか肝心の梯子が真っ白に塗りきれていないことに気づいてしまったので、スタジオはプールになりきることができておらず、むしろなりきれていないことばかりが気になってしまう。

なりきれていないこと。なりきらないこと。予定通りにいかなかったこと。予定をずらすこと。作家それぞれのそういった態度が形となり、展示空間(プール)の内外に作品が展示されていた。参加している作家の数が多かったので、ある程度まとめながら作品に注目していきたい。

梯子は真っ白に塗りきりません

荒木桃香・家成俊勝・中山和也の3名は、梯子が真っ白に「塗りきれていない」ことで、展示会場であるスタジオがプールに「なりきれていない」という状態を「なりきらない」ことへと読み替えた上で、非熟練な作家自身の態度へと肯定的に内省化する作品が見られた。それはプールに置き換えて考えてみると、泳ぐ前に準備運動をしたり泳ぐフォームを確認したりなど、競技の手前にある姿勢(文字通り)を意識するようなことかもしれない。

荒木は展示会場のUMMMでアルバイトスタッフとして働いている(いた?)。UMMMでの業務が展覧会のステートメント通りであれば、荒木は日頃からスタジオ(プール)で「タイムを競い、ゴールをし、飛び込み、技を披露している」ことになる。
しかし、荒木の作品**《机の上は片付けてないです。》**のテキストには「スリッパを並べることやゴミを集めること、郵便物を机の上に置くこと、コップを洗うこと」など、グラフィックデザインを専門としている企業としては意識が向かないであろう雑務が羅列されている。
雑務にも当然競技性があり、プロフェッショナルが居て然るべきだが、テキスト下部に記載された「いつもプールの水を撫でながら波が起きたらすぐに飛び込むようにしている。」という言葉や荒木の作品がプールの梯子を登った先にあることから、荒木はUMMMでの業務をプールサイドとして捉えているのだろう。

一度、中山のテキスト『君たちより面白くない作品がたくさんありますので、その作者たちがどのように制作しているか勉強していってください』(2009)[*1]を確認したい。

丁寧なジョギング、入念なストレッチ、率先してのスターティングブロックの準備、先輩への気配り、腕の振りや腰の切れなど細かな走りの確認、その都度のグラウンド整備など、見過ごされがちな世界が、スターの新世界創作と同時に巻き起こっていた。澤木啓祐氏の言葉を聞いてすぐに意味を飲み込めずに軽く流し、未知の世界に飛び込みたいと練習に没頭していたが、入念に丁寧に練習する大学生に目がいった。遅い選手と言われていた大学生の動きを目の当たりにすると、新世界が増産されるどころではない衝撃が走った。いつも自分はどこに向かって走っているのか。たまたま未知の世界に飛び込む程度のいつもの世界の奥に必ずある新世界にいくことが楽しいことなのか、重要なことなのか、と。
澤木啓祐氏の言葉が、通常の未知の世界検索ルートでは見ることができない隠れた次元に入り込むひっそりと佇むメインストリートであった。その後、まだ見えていないだけでつながっている次の世界に飛び込むことよりも、隠れた次元に届くために、本当のメインストリートを走れるように、アクロバティックではなく、淡々と必要なことのために見たり、聞いたり、動いたりすることを最善とする意識が芽生えた。

中山のテキストを踏まえるのであれば、荒木が羅列するUMMMでの業務は「先輩への気配り、腕の振りや腰の切れなど細かな走りの確認、その都度のグラウンド整備」にあたる。プールの中で競技に専念することからは一歩身を引き、アクロバティックを狙わずにプールの外での気配りや姿勢の確認に専念すること。それは、中山が本展で設定した「3日間の制作タイムの中で悩み発見しながら競う」という形式からも一歩身を引いている(むしろ、正面から向き合っているとも言える。)。

家成は共同主催を務める建築ユニットdot architectsの実践を通じて「なりきらないこと」「非熟練」でいるという態度を貫いてきた。
2013年「瀬戸内国際芸術祭2013」で制作した「Umakicamp」や大阪市の住之江区にある協働スタジオ「コーポ北加賀屋」など、地元住民やメンバーと手を取り合いながら、もう1つの社会として実践するための開放的な空間を協働してきた。
文化人類学者デヴィッド・グレーバーの発言に少し触れたい。

アナーキズムは「高踏理論」構築の役に立たないだけではない。それは何よりも、実践の形式にかかわるものなのである。だから、それが何より重視するのは「方途が目的と協調していなければならない」、「権威主義的な方法によって自由を獲得することはできない」、「できうる限り、自分の友人や同志との関係の中で、自らが目指す社会を具現化せねばならない」ということなのである。

作品**《何かに使えそうな物 3番》**は、家成がほぼ廃材から自作した非電化足踏みろくろを用いて造形された木彫のなにかだ。「何かに使えそうな物」と、タイトルについている通り、それ以上のなにかを想像することができない。具体的な機能がはっきりと設計されているプロダクトを到達として考えるのであれば、この造形物はもちろんプロダクトになりきれていない。そして、そこに到達することにはさして大きな意義は存在しない(もちろん、洗練されたプロダクトを設計できることは、非常に素晴らしい)。

むしろ、家成の作品において想像を膨らませたいのは、展示空間には置かれていない非電化足踏みろくろなるものの正体についてだ。私は、そもそも旋盤で加工されて曲面を持った木材がどのような役割を果たしているのか具体的に想像することができない。想像ができるのは、この造形物はほぼ全てが家成の身体を資本にすることによって出来上がっていることだ。無茶にスタジオも家成の身体の延長として勘定してしまえば、材料・道具・エネルギー・制作物の全てが家成個人で完結しており、既存のインフラストラクチャーや特別な技術から独立している。「真っ白に塗りきらない態度」を社会まで引き延ばして考えている作品だった。

本展では、中山の作品**《UMMMの初心》*は展示会場内には置かれておらず、Google Mapで「UMMM」を検索すると表示される場所(=以前まで使用していた事務所)に設置されている。(記録写真で初めて見たけど、かっこいい門構えだ)まず、中山の作品のタイトルにある「UMMMの初心」を意識する上で、UMMMのファッションブランド(?)「KIWI」のテキスト[3]をHPより参照することから始めたい。

“リニューアル こていがいねん、へんけん、コンプレックス。おもいこみ、じょうしき、コンサバティブ。いろんなことをぜんぶ忘れて、もう一度、みてみたい。道ばたの小石や、ゴミにたかるくろい鳥。美しいとされているもの、きたないとされているもの。今必要なもの、今不要なもの。キウイ(フルーツ)はいつみても新鮮。なぜ毛皮の中にビビットなグリーンをじゅんびしたのか。わからない。わからないから面白い。そうぞうする自由がある。だからユニークでエキゾチック、何度でも新鮮。何度でも新鮮な目で、もう一度、よく知ったはずの世界をよく知らない世界としてみてみたら。”

KIWIでは、毛皮で覆われた外見とは裏腹にビビットなグリーンを内部に秘めているキウイのイメージをモチーフとして扱い、当たり前や自明のものとして見過ごしている認識に対して、新鮮な切り口で改めて見直すことを試みている。中山がキウイを用い、初心という言葉をタイトルに入れたのは、そうした初心をメンションするためだろう。それは、展示会場が真っ白に塗られているということを自明のものとして扱わず、例えばタバコの煙で壁が黄色くなっていることとか、椅子のある場所だけやたら床が黒くなっていることに対して意識を向ける。白く塗られたキウイの中まで想像してみるということだろう。とはいえ、キウイの中身がビビットなグリーンをしているという想像もまた既成のイメージのように思える。中山が買ったキウイが実はゴールドキウイで少し黄みがかった色をしていたのかもしれないし、レッドキウイで赤みがかった色をしていたのかもしれない。気温が高いせいで腐って毛皮と同じ色になっていたのかもしれない。新鮮さ(思いがけないこと)は、この息詰まったような思考の右往左往から抜け出すことで見つかるのかもしれない。その意味で、この展覧会から抜け出す理由を与えてくれたのは、とても心地良かった(キウイは見に行っていないけど。)。

また中山の作品は美術の形式に引き寄せて考えることも可能だ。なぜ真っ白なホワイトキューブが当たり前のものとされているのか。ホワイトキューブが理想の空間なのであれば、真っ白になりきれていないということは何を意味するだろうか。みたいな。でも、その問題自体が既に見慣れたものになってしまっていて、僕では新鮮な切り口を見つけ出せそうにないので割愛したいと思う。

梯子は真っ白に塗りきれていました

谷口あかり・北原和規・平井志歩の3名の作品は「塗りきれていない梯子」を「塗りきる予定だった梯子」として読み替えた上で、
作家が予定通りに行かなかった出来事を形式化し、その経緯と結末、予定通りに行ったかのように振る舞う様相を作品として扱っている。

谷口の作品**《ポケットに潜るうさぎ》**を理解する上で、まずは谷口がこの作品を発表するまでの経緯を「予定」、「予定外」、「結末」に切り分けながら考えたいと思う。

予定:友達にうさぎのフィギュアを渡そうと思っていた。
予定外:その友達は既にうさぎのフィギュアを持っていたことを知ってしまい渡せずにいた。
結末:自分が持っているフィギュアと友達の家にあるフィギュアを入れ替え、入れ替えたうさぎを受付の人のポケットに入れてもらった。

この一連の手順を経たことで、谷口は結果的にうさぎのフィギュアを友達に渡すことに成功し、自信が持っていたフィギュアを手放すことにも成功した。この結果だけを見れば、谷口は当初の予定を達成できたことになる。しかし、正確には予定通りに進んだという体裁を取り繕っているだけで、展覧会という一時的な期間が終わって仕舞えば、多分うさぎは谷口の手元に戻ってきてしまう。展覧会という時限的な制約が谷口の生活にも時限的な影響を及ぼしている。また、展覧会という形式で吐露されていることで鑑賞者的には、何が嘘でどこまでが計画なのか、どこまでも妄想が広がってしまう。

北原の作品**《プールの梯子》**のテキストには「黒のインキで印刷される「はず」だった超軽量新聞紙(SL紙)に、真っ白に塗られる「はず」だったプールの梯子を白のインキで印刷する。」と記載されている。まず、白のインクがあるんだという技術に対する驚きがあったのだけど、今回は置いておく。北原の作品では、黒のインキで印刷される予定の新聞紙と真っ白に塗られる予定だったプールの梯子の2つの予定が存在している。
その上で北原は、新聞紙が黒のインキで印刷されるという予定を反故にし、予定通りに行かなかった梯子を写真と印刷の編集作業の中で辻褄を合わせるという構造が見られた。谷口の作品と同様に「予定」「予定外」に当てはめてみると、以下のようになる。

予定:黒いインクで印刷される新聞紙、真っ白に塗られる梯子
予定外:白いインクで印刷された新聞紙、真っ白に塗りきられていない梯子

写真というメディアが持つ記録行為としての真正性が前提にありつつも「新聞紙」というメディアに対する不信感やヴォルフガング・ティルマンスが真実研究センターで実践しているような、捏造された真実として鵜呑みにできない怪しさを感じてしまう。梯子を印刷した新聞紙は規格はわからないが屋外広告のようなサイズ感をもっており、あたかも「予定通り」であるかのように大々的に壁に設置されていた。

平井の作品**《油切り紙の休暇》**は展示空間の床に香川県の地方紙が置かれていて、エアコンの風を受けて微妙に揺れていた。平井の作品において予定外の事態が起こっているのは、平井の母親である。床に置かれていた新聞紙は、香川県にある平井の実家で母親がえびの天ぷらの油を切るために使用する予定だった。平井はその新聞紙を京都に持ち帰り、ひと時の休息を与えていた。谷口、北原の作品同様「予定」「予定外」を母親の視点に当ててみる。

予定:新聞紙を使って天ぷらの油を切る
予定外:新聞紙がなくなってしまったので、新たに油切りに使えそうな別の紙を探さなくてはならない

母親が予定外の状況に巻き込まれてしまったこととは裏腹に、新聞紙は課せられる予定だったタスクから解放され「休暇」を得ることができた。フランスの思想家・活動家・映画作家ギー・ドゥボールが1956年に書いたエッセイ「漂流の理論(Théorie de la dérive)」[*4]ではルートを決めずに歩き続ける「漂流」という方法が提案されている。予定を放棄した成り行きまかせの行動によって思わぬ出会いや出来事と遭遇することになる。油切り紙は予定から逃れ、平井の思うがままに行動したことで、思わぬ出来事に遭遇することができたのだろうか。

谷・北原・平井の作品を比べてみると、予定外の出来事に対して、予定通りであるかのように振る舞う谷口と北原、予定外の出来事を発生させている平井という違いが見えた。

真っ白な梯子はだんだん黒くなっていきます

長嶺慶治郎・宮本真衣の2名の作品は、プールという具体的なモチーフを扱い、作品を経験する中で「なりきれなさ」を確認させてくれるような作品が見られた。

僕が小学生低学年頃までは毎年夏に近くの水泳場に家族で行っていた。そこには流れるプールがあって、基本的にそこで流されることだけを目的に行っていた。ただこの流れるプールには、毎時間15分程度の休憩時間を挟むというルールがあって休憩時間中は誰もプールに入れなかった。今思えば、意外とそれがいい気分転換になっていたのかもしれない。どんなに居心地の良いスタジオであっても、ずっと泳いでいるのは流石にしんどいだろう。
長嶺の作品《梯子、プール、工船》は、スタジオの真向かいにある「カフェ工船」にある机・椅子をスタジオにある机・椅子と入れ替えるという作品で、スタジオに置かれた椅子に座れば実際にカフェ工船のメニューを注文することができる。オブジェだけでなく付随する機能までもスタジオに持ち込むという作品だ。どうやら机と椅子以外の物も入れ替わっているらしいが具体的にはわからなかった。
UMMMのメンバーはスタジオでの業務中に息抜きでカフェ工船に行くことがあるのかもしれない。椅子に座り机に手をつくと、カフェ工船で息抜きをしている感覚を味わえるのかもしれない。それはさながら水面に浮かぶ船のような状態だということだろうか。
もしプールに遊びに行くとしたらご飯を食べたりウォータースライダーに乗ったりと、息継ぎや休憩を適度に取りたい。長嶺の作品からは息苦しい水中から顔を出し、プールの競技性から離れていくような態度が見える。

「すべてのものは有限であるが、それら全ては無限の物質の流れの中に巻き込まれている。したがって、唯物論者の全体性、つまり流れの全体性が存在する」ボリス・グロイス『流れの中で』2021年[*5]

ボリス・グロイスの発言に頼ってみれば、展覧会やフライヤーを制作し発表することはあくまで期間の決まった一時的なもの(有限)に過ぎない。それらは、もっと大きな循環の中に存在している。UMMMスタジオでこれから無数の展覧会が開かれるだろうし、長嶺も様々な展覧会に参加することだろう。船はある程度の流れには逆らうことができるが、強すぎる流れには従うことしかできない。関西を拠点に活動をしている美術家集団プレイ(THE PLAY)に『IE: THE PLAY HAVE A HOUSE』(1972)という作品がある。この作品は、発泡スチロールとベニア板で水に浮かぶ家をつくり、その家で6日間生活しながら川を下るという行為が行われている。他にも、発泡スチロールで矢印の形をした船をつくり川を下った『現代美術の流れ』(1969)という作品がある。工船がその場その場で食料を獲り、調理し、保存しながら進むことができる船を指す通り、長嶺の作品からは、美術と生活を切り離さずに捉えることで、そのどちらにもなりきらない状態や流れる時間を肯定するような態度が見れたように思う。

そのマットは、プールというよりかはお風呂の入り口に置かれているよなフワフワしたもので、お風呂上がりに床が水浸しにならないように足裏の水分を拭き取るために使うような吸水性の高いものだった。宮本の作品《肺に3304ccの酸素が流れ込んでくることが、生暖かい風が頬を撫でることが、歩くたびにアスファルトの凹凸を感じることが、そこが深い深い深い場所だと訴えてくる。》は、展示会場の入り口にお風呂の入り口に置くような足拭きマットを敷いた作品だった。ここに来た人は靴のまま会場に足を踏み入れることになる。そのため、マットは会期が進めば進むほど黒く汚れていってしまう。白い床に置かれたそれは、汚れれば汚れるほど目立ってしまう。それはプールになりきるはずだった空間がなりきれなかったことを会期が進むにつれてじわじわと自覚させるようであるように思う。というとこまでが私の記憶だったのだけど、改めて記録写真を見てみると、あんまり汚れていない。
会期中に洗濯されて白くなったのか、元々白かったのか、記憶と写真が食い違ってしまっている。その構造は、梯子が真っ白だったかどうか判然としない展覧会の構造そのものを説明してしまっているのかもしれない。

真っ白な梯子は空から舞い降ります

松井の作品に触れる前に、あらためてこの展覧会のステートメントを確認したい。

プールを想像をしながらもプールはないことを確認しつつ、真っ白に塗りきれていないプールの梯子があることを確認しつつ、3日間の制作タイムの中で悩み発見しながら競い、ゴールを目指しながらUMMMと呟き続けたい。

松井の作品《人類最後の3日間が過ぎて》は他の作家と異なり、唯一3日間という制作タイムに対して言及しているように見えた。天井から吊るされたスーパーボールは、白い殻のようなものに覆われていて、床に散らばっている様子から落下したことが分かる。制作タイム(=人類最後)の3日間が過ぎ去った後、卵のような殻から色彩豊かな球体が弾みと共に産み落ちる。それは、う〜んという波の間からアイディアが降りてくる瞬間や衝撃にも思えるし、コーヒーがフィルターを通って抽出されたことでサーバーに着水したようにも思える。悩みに悩んだ3日間の末に、世界が色を取り戻したかのように、突然目の前が開けたのかもしれない。あるいは、コーヒーが抽出され終わったことで、ようやく息をつけたのかもしれない。

まとめ

まとめという見出しが必要なように、それぞれの段落で書いたことにはまとまりが欠けてしまっている。しかし、そのまとまりのなさが今回の展覧会だったのかもしれない。梯子が真っ白に塗りきれているか怪しいということに気づいてしまったこと。その気づきが波紋として広がることで多方面に開かれた作品へと繋がっていた。それぞれのアイディアは瑞々しくて、洗練されてはいなかった(させていなかった)。1つのアイディアから生まれているようも見えるのに、それぞれの作家が向き合っている状況はかなり異なりながら空間を共有していた。

きっと、3日間の制作タイム中はう〜んという呟きが頻繁に発せられていたのだろうな。と感じさせられた。息継ぎもままならない水中で、キウイの中身を確認した時のような、色鮮やかなスーパーボールが弾んだ時のような、突然世界が色付くような瞬間があったのなら非常に嬉しい。


[1]中山和也「君たちより面白くない作品がたくさんありますので、その作者たちがどのように制作しているか勉強していってください。」2009
(https://rassiereronne.be/lessinteresting.html)

[2]デヴィッド・グレーバー『アナーキスト人類学のための断章』高祖岩三郎訳、以文社、2006、pp.41

[3]KIWI「リニューアル」
(https://kkiiwwii.jp/statement.html)

[4]ギー・ドゥボール「漂流の理論(Théorie de la dérive)」シチュアシオニストオンライン文庫、2006
(https://situationniste.hatenablog.com/entry/20061016/p1)

[5]ボリス・グロイス『流れの中で』河村彩訳、人文書院、2021、pp.17

(URLは、全て2026年8月7日に最終確認)

真っ白に塗りきれていないプールの梯子

2024年8月23日(金)ー 9月15日(日)
13:00 – 19:00(金・土・日曜 開廊)※入場無料

会場 : UMMM Studio
〒602-0841 京都市上京区梶井町448 清和テナントハウス 2F H号室

参加作家:荒木桃香、家成俊勝、北原和規、谷口あかり、長嶺慶治郎、中山和也、平井志歩、松井利夫、宮本真衣

キュレーション:中山和也
デザイン、写真:北原和規
コーディネーション:荒木桃香

記録写真提供:作山朋之

writer

船越晴稀
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