くねくね迷歩道 vol.2:膝小僧の道

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かべ【壁】
1 建物の外周の部分。また、部屋などを仕切るもの。木舞こまいを芯に練った土を塗ったり、板を張ったり、石・煉瓦れんがを積んだりして作る。
2 前進を阻むもの。進展の妨げとなるもの。障害。「記録の壁を破る」「開発が壁にぶつかる」
3 登山用語で、直立する岩壁。
4 《壁を「塗る」に「寝ぬる」を掛けて》夢のこと。
「まどろまぬ―にも人を見つるかな正まさしからなむ春の夜の夢」〈後撰・恋一〉
5 《白壁に似ているところから》豆腐をいう女房詞。おかべ。

(コトバンクより引用)

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仕事が早く終わって、いつもは電車に乗ってワープする道のりを1時間くらい歩いて帰ることにしてみた。それはこの記事を書くためでもあったし、せかせかと時間に追われる毎日から少し距離を置きたかったからでもある。夕焼けに目を細めつつ、フラフラのんびり歩くのはとても心地が良い。梅雨入りしたにしては晴れの日が多くて、でも気温はまだ穏やかで、なんだか面識のない季節だけども、最近はまあまあ過ごしやすい。

みなさんはいかがお過ごしですか。

仮免の教習車が走り回り、たまに子猫が産まれるこの街を、今日も元気に歩きます。

「ビョーキの壁」

密着して建てられていた建物が取り壊されて、そのくっついていた部分の形だけが残ったトマソンには頻繁に出会うけれど、こんなテクスチャのは初めて見た。ビョーキとそうでない部分の境目を見るに、建物を取り壊した後にこの点々をくっつけたんじゃないかと思う。多分、恐らく、この後左官する材料がしっかりくっつくようにするために敢えて凹凸を残したんだと予想します。でももう、この写真の場所がどこだったかは忘れてしまって皆目見当もつかないので、答え合わせは出来ません。

街は新陳代謝を繰り返し、日々様子を変えていく。見知った道でも、明日は違った景色になっているかもしれない。そう思うと、キョロキョロ辺りを見廻しながら歩くだけである程度その時間を楽しむことのできる自分にとっては、この世界はあまりにもデカすぎると思う。

「街にBBB(ビッグ・ブルー・バンドエイド)」

これもきっと、取り壊した建物と壁一枚を共有していたせいで中身が剥き出しになってしまって、仕方なくブルーシートで応急処置したんだろうと思う。きっとそれも随分と前のことで、シートは破れてきて草木が繁り始めている。

こういう状態は案外珍しくもないのか、歩いていると突然結構な面積の人工の青が現れることがままある。でもきっとこの光景も、古い建物が減って行くにつれて珍しいものになっていくんだろう。

つい最近行なった自分の個展に来てくれたお客さんに「膝小僧を感じました」という奇怪な感想を貰ったことを思い出した。最初は聞き違いかと思ったけれど、存外自分の作品に”膝小僧”というワードは似合っていたし、ちゃんと作品を見て咀嚼してくれたんだなーと思って嬉しくなった。膝小僧は往々にして擦りむかれるものだし、擦りむいた後は絆創膏を貼ってかさぶたを作って、傷を直す。傷ついては回復しを繰り返しているというニュアンスが”膝小僧”という言葉にはきっと含まれていて、とても印象に残っている。というかそれ抜きにしても、展示を見た後の感想としては面白すぎる。

それを踏まえれば、これは街に出現する大きな青いバンドエイドだな。

かさぶたといえば、前回も書いた”作品に宿る色気”について考えていたとき、最初は「色気とはかさぶたである」という仮説を立てていた。傷ついてはそれを直す、その過程に色気が宿るんだと思っていた。でも今ではこれは更新されて、色気は筋肉だと思っています。かさぶたは傷ついた場所を元に戻すだけだけれど、筋肉は傷つく前よりも少し大きく成長するから。

自分の作品を見た人に膝小僧を感じさせられたなら、少しは色気に近いものが出てきたと思っても良いのかもしれない。

「ぼっち祠」

家屋と家屋の間に突然現れる空き地ならそこまで珍しくはないけれど、そこに祠だけが残っている状態はあまり見ない。空き地の手前に頼りなくトラロープが張ってあるということは、この敷地に入ることは僕達に許されていないってことで、つまりこの祠に祀られたお地蔵様にはほとんどの人は近寄れなくて、とてもひとりぼっちだということになる。公共の路傍に建つ祠には、恐らく近所の人が供えたであろうお花があって、時折さすらいのお婆ちゃんが手を合わせているところに出くわすこともある。でも、この祠にはそういった瞬間は訪れない。私有地にあるせいで近寄ることも叶わない。ひどく寂しそうに見える。
一体、この土地に新たな建物が建つ時、この祠はどうなるんだろうか。多分祠を取り壊すことは様々な理由で出来ないからこうなったんだろう。土地(祠付き)みたいな感じで売りに出されるんだろうか。祠があるからちょっと値引きとかされてたとしたら、めっちゃ嫌だな。

自分の作る作品に望むものは『千と千尋の神隠し』に登場するカオナシの佇まいと似ていると思っていた時期がある。橋の片隅にぼうっと立って物も言わない。それはカオナシのその様相に、長い間同じ場所に立ち続けた壁のそれと似たものを感じたからだった。そして、カオナシと自分が興味を持つ壁には、共通して”言語化出来ない寂しさ”のようなものがあると思った。

米津玄師の『首なし閑古鳥』という楽曲には、「欄干の傍に立つ虚 青い光が抜けていくようだ」という一節がある。この”欄干の傍に立つ虚”がカオナシだとすれば、その後の歌詞がどうもカオナシについて歌っているように聞こえてきたりもする。初めて獲得した千(千尋)という居場所に歪な執着をして、無邪気にそれを追い求めるようになってしまう寂しさは、きっと誰にでも起こり得る感情だと思う。

「犬禁(いぬきん)」

レベッカ・ソルニット著『迷うことについて』という本にあった、「迷っている人は、自分がもといた場所に戻ろうとし続ける限り迷い続ける。ただひとたび自分が迷っているその場所に順応し、そこを故郷だと認識するようになると、迷い人は迷い人である事を終える。帰りたいから迷い続けてしまう。」という文章を思い出す。

人間の抱える悩みの大半は人間関係によるものらしい。そしてそれは、依存先をたくさん増やせば軽減されるんだという言説を聞く。でも、依存先を増やせば増やすほど、個々に対する適切な執着すら出来なくなって、全部がどうでもよくなってしまう気がする。固執のない人生はいいもんなんだろうか。迷うことを止めるために故郷と呼べる場所を探すんじゃなくて、しっかりと迷い苦しみ込んだ先に故郷に辿り着くような、そんな良質な悩み方ができるといいよなと思う。そうじゃないと辿り着いた場所を大事に出来ない。

だから結局はツルツルの膝小僧のままじゃ良くなくって、膝小僧を擦りむき続けないとダメなんだ。

ゆっくりゆっくりこの記事を書いていたら、すっかり梅雨っぽい天気が続く季節になってきました。
なんだか図らずも暗い話になってきてしまったので今日はここらで止めにします。
散歩も引き際が肝心です。

 

またこんど!
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櫻井正樹
1999年京都府生まれ
2025年、京都市立芸術大学大学院美術研究科修士課程美術専攻(油画)修了

街に存在する壁を起点に、フレスコ画の技法を用いて制作する。壁に発生する自然/人為的な劣化の現象によって、かつてそこにあった意味や機能が擦り減り、徐々にオブジェクト化していく経過に着目している。
最近欲しいものは力。

writer

櫻井正樹
散歩の日々 第1回「沼」 くねくね迷歩道 vol.1:忘れっぽい道